こんにちは。今日は、根拠のない自信について話したいと思います。根拠のない自信という言葉。頭に、”根拠のない”とつくことから、自信という言葉の裏付けてとして、根拠となる”実績”や”経験”が自信には必要である。ということがわかる。え?言っている意味がわかりません?よしきた、積み重ねた上に自信が生まれてくるって話で。ほうほう。ということは、根拠のない自信とは、積み重ねなしで「俺、めっちゃできます!」という表現になる。ふむふむ。例えば、高校から野球を始めた子が、「甲子園いける気がするんだよね〜」二十歳の童貞君が「なんか、俺、もてるんだよね〜」「俺、この会社でイノベーション起こしまくります!」と公務員の採用試験で語ったり。お前、どっからそんな自信が出てくるの?とツッコミどころ満載で。漫画と現実の境目が理想というフィルターがぼやっとしてたり、女性を知らなかったり、組織を舐めてたり。何かわかんないけど「俺できるんです!」の自信がある者。一言で言うと、バカ。なんだが、みんなから好かれる。そんな根拠のない自信について話します。
結論、かっこいいかどうか。なのではないでしょうか。
信じるものは救われる。という教えがあると思うが、ただ純粋に信じるってことって大事だよね。幼稚園児が親を純粋に信じているように。
そもそも、”自信”という言葉を作った人は、どういった気持ちで作ったのだろうか。そこに根拠を必要としていたのだろうか。根拠とかどうでも良くて、親を思う子供ように、そこには当たり前にあるのが自信。だとすると、根拠のある自信って、ハリボテのようなものかもしれない。”自信”という言葉を作った人が言う。「そういった意味で作ったのではないのよ。”根拠のない自信”という言葉自体、まるで、”やる気がない。からしない”と同じ。”水晶のない占い”と同じ。ないところに理由をつけただけ。自分信じるだけだよ〜。だから、根拠なんて必要ないのよ〜」かもしれない。
まぁ、いない人のことを考えても仕方ない。話を戻して。現代は、自信の捉え方も二つあるんだろうね。積み重ねてその上に成り立つ自信。そして、積み重ねを要さず、ただ自分をシンプルに信じると書いての自信。で、かっこよさが違うよね。って話で。積み重ねた自信ってかっこいいよね。というのが私の最近の好き。です。
「白石君。君にこのプロジェクトを任せようと思うのだが、どうかね?」「どれどれ…そうですね。自信ありますよ。なぜかと言うと、以前似たようなプロジェクトを成功させていますからね。」眼鏡クイッ。
「え?早急に立案が必要ですって?お任せください。ご要望とあれば、部長の明日の朝食までに間に合わせましょう。そう、朝飯前にね!」妄想であるにもかかわらず、私の株は爆上がり間違いなし。上司は「お前、すげーね。」と言われ、後輩からは、「先輩、かっこいいっす!」となる。
やっぱり、積み上げてきた自信は本物感が出てかっこいい。
「気持ちでは負けません!自信があります!」いや、具体的に、その自信を持ってるのかをしりたいのよ。気持ちじゃ甲子園にいけないのよ。
「私にできないわけがない。なぜって?それは、部活を3年間辞めずに頑張った実績があるからです。」
このように、理由をつけることで印象が全然変わるよね。
結局のところ、日本人は、自信の根拠となることが「他人から見てすごくないといけない。」と思いすぎているのでは。自信の根拠は他人から褒められるということでしか得られないものだと考えているのでは。
”しか”はいいすぎかな。バランスが非常に悪くて、他人が褒めるからの自信。と自分で認めるか自分で自分を褒めてからの自信。この他人と自分のバランスが悪い。もっと、自分OKからの自信の割合を増やしていいのでは。
まとめると 私は学生時代「なんとかなるでしょう。かっかっか!」というと、友達は「お前、うける〜」と人気者だった。そう、根拠のない自信だけはあるバカだった。いつのときか、冗談で、「なんとかするでしょう、俺なら。」と言ったら友達が「おっ、かっこいいね。名言出たね」と言った。それから「なんとかなるでしょう」を使わなくなった。すると、なんということでしょう。預言者のように言葉を解き放つと、ずばずばとそれ通りになるという私がいます。